30年ちかくまえ、大阪市の湾岸沿いの工場地帯に足繁く通い写真を撮っていた時期があった。かつては東洋のマンチェスターと呼ばれた工業の街はじわじわと衰退し、大きな工場が解体された跡地や利用されることのない埋立地が、どこか荒野を思わせるように広がっていた。なぜか、そんな風景に取り憑かれてシャッターを切りつづけた。

いつものようにカメラを首からさげて、その日は南恩加島あたりをうろうろと歩いていた。ふと、小さな鉄工所のうす暗い作業場に目をやると、ススとホコリにまみれた子犬がつながれている。あまりに愛嬌があるのでしばらく眺めていると、工場の経営者らしき年配のおっちゃんが奥から出てきた。話を聞くと、母犬は首輪こそしているが放し飼いで、なかば工場の用心棒的存在。どこかのオス犬と通じていて、毎年春になると子犬を出産するので、もらい手を探すのに苦心しているらしい。おっちゃんの強いすすめもあり、さんざん迷ったあげく子犬を引き取ることにした。

子犬を工場から連れて帰るとき、母親があとからついてきた。すこし距離を置いてゆっくりと歩いてくる。こっちは噛みつかれやしないかとずっとヒヤヒヤしていたが、どうやら息子を取り戻そうという気はないらしい。子犬もうしろを振り返り、いきたくない、と前足を踏んばり首を振って抵抗する。しかし、ある辻まで来ると母親はやおら立ち止まり、そこからは追ってこなくなった(あとで地図を見て気がついたが、その辻は町界だった!)。きっとなんども子別れを経験しているのだろう。たぶん、犬も含めた世の中の道理を理解してるにちがいない。でも、子別れの段はなんとも極悪非道なことをしているようで胸が痛んだ。子犬は鉄工所の生まれなのでテツと名付けた。その日から19年の長きにわたっていっしょに暮らすことになる。

テツが生まれた工場は、いまはもう跡形もない。小さな工場は立ちゆかなくなってひさしい。でもそんな閑散とした街の取るに足らない風景やつまらない物語がいつのまにか自分の心の底に沈殿して発酵し、やがて腐ってブクブクとガスを発生させる。そのなにやらわからない臭いを絵にできたら、と日日絵筆を走らせている。ススとホコリにまみれていた子犬はさびれた土地をうろつくのら犬になっていたかもしれない。ひょっとしたらトラックにでも轢かれて、もうこの世にはいてないかもなぁ…。そんな夢想にふけっていると、野たれ死にした凡百の駄犬の一生とロンサムすぎる工場地帯の風景がいとおしくなってくる。